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戦地ベトナムの過酷な日々 戦争の証言②

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和歌山市府中の前田創(はじむ)さん(89)=御坊市出身=は、進軍するために橋や道路、トンネルなどを造る「工兵隊」の一員として、ベトナムで終戦まで過ごした。軍隊の教育は厳しく、体罰のない日などなかったが、従う他に生きる道はなかった。高校卒業後、20歳にかけてを戦地で生きた青年の過酷な日常を聴いた。

前田さんは昭和18年、県立紀南農業学校(現南部高校)を卒業し、大阪の貿易会社に就職。当時フランス領だったインドシナ(現ベトナム)のハノイ支店に配属された。翌19年に現地徴集を受け、工兵隊に入隊した。

現地の基地には数千人の日本人兵士がいた。午前7時の起床ラッパで目を覚まし、穴の掘り方、爆薬の作り方、橋を架ける時などに使う「鉄舟(てっしゅう)」のこぎ方など、一人前の工兵になるためのあらゆる教育、訓練を受けた。武器、テントなど総重量80㌔の装備を身に付けた状態でのほふく前進、ガスマスクを装着しての穴掘り、野戦訓練などもあった。

連日スコップなどを握り、手は豆だらけ。「毎晩、豆をつぶしてはヨーチン(ヨードチンキ)を流し込んだ。また次の日に豆ができるが、痛いら言うてられへん。故郷に家族がいるのに、訓練についていけないなんて恥やった」

♪新兵さんはかわいそにー、また寝て泣くのかよ――。午後9時の消灯ラッパは、こう歌っているように聞こえたという。疲れ切って横になっていると、深夜、教育係にたたき起こされた。「銃の整備の仕方が悪い」「靴の並べ方がなっていない」。何かと理由を付け、硬い軍靴のかかとで顔を殴られた。連帯責任として、誰か1人でも悪ければグループ全員が起こされ、毎晩のように体罰は続いた。

昭和20年3月、ハノイでフランス軍との市街戦に突入。三八式歩兵銃を手に、初の実戦を迎えた。銃や大砲の弾が飛び交う中、敵の姿は見えず、「とにかく弾の来る方に向かって撃つだけ。当たったかどうかなんて分からない」。戦闘は勝利を収めたが、ともに現地徴集を受けた仲間、約30人の半分が一晩で死んだ。

その後、山中に逃げ込んだ敵を追い、進軍する日々が半年近く続いた。昼間は爆撃を受けるため、移動は夜。雨が降ると30㌔の荷物が肩に食い込み、隣の兵の服をつかんで寝ながら歩いた。水の確保は命懸けで、沢に降りた仲間が帰ってこないこともあった。

同年8月、山中で終戦の伝令を聞いた。「ほっとしたが、先のことは何も分からず、不安やった」。翌21年5月に帰国。焼け野原となった大阪を見ながら帰郷した。

「戦争はけんかと同じ。悪い指導者2人があって初めて成立する」と前田さん。被害者は両国の国民だと言い、「国の運営も、企業の経営も、個人の健康管理も、物事の問題は全て欲望に帰一する。征服欲をコントロールできない、器の小さい人間を指導者に祭り上げないことや」と訴える。

訓練で曲がったままになった中指を見せる前田さん

訓練で曲がったままになった中指を見せる前田さん


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