昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲で、語り継がれる出来事の一つに、市堀川の悲劇がある。和歌山市福町の市堀川に架かる中橋のたもとには、犠牲になった人々を弔うために建立された中橋地蔵尊がある。建立世話人・植本貞三さん(享年76)の長男、彰一さん(65)は久し振りに足を運び、静かに手を合わせた。
中橋地蔵尊は、今から45年前に市民有志の手で建立され、現在も手を合わせる人の姿は絶えない。
あの日、戦火を逃れようと大勢が川へ飛び込み、用水路などに避難したが、折悪く満潮時と重なったことで多くの犠牲者を出した。
貞三さんは昭和20年当時は22歳で、和歌山大空襲時には戦地に出征。高校野球史に「伝説の大投手」として名を残しながら戦場に散った海草中学校(現向陽高校)の島清一投手とは同級生だった。
建立のきっかけは昭和44年に、貞三さんが乗り合わせたバスで、市堀川で多くの犠牲者が出たと耳にしたこと。「何とか供養できないか」との相談を受ける中で、身内を亡くした十数人が賛同してくれ、広く市民に地蔵尊建立のカンパを呼び掛けたところ85万円が集まった。大工や石屋なども協力し、県から土地を借り受けて建立した。
彰一さんは「父親は困っている人がいれば、力になりたいと、すぐに行動する性格でした」と振り返る。供えられたさい銭は児童養護施設などに寄贈していたという。
貞三さんは平成3年に同市杉ノ馬場から同市福島に転居したこともあって、維持や毎年の法要は、地元住民や高野山金剛講和歌山地方本部正寿講支部に委ねてきた。彰一さんは「父はきっと、戦争を知る世代がなくなっても、地蔵尊を通じて、皆さんに悲惨な戦争を語り継いでもらえるよう願っていると思います」。
生前、貞三さんは和歌山大空襲の市民の証言をまとめた書籍『7月9日火の海〈和歌山大空襲〉』に、その思いを書き記している。「いつまでも戦争のない平和な世界を築くのは、やはり戦後の方々の力によることが大であろうと思うのです(中略)お地蔵さんの前を通った時は『戦争したらこういう犠牲の方もたくさん出るのだなぁー』そこで戦争はいかんなと感じてもらいたい」
平和が訪れた和歌山市で、地蔵尊は二度と同じ悲劇を繰り返さないよう、これからも、まちを優しく見守っていく。