1945年8月15日の終戦から69回目の夏を迎えた。戦争を経験した人が年々少なくなる中、記憶を風化させない取り組みがより大切になっている。太平洋戦争の渦中、幼少期を和歌山市の紀伊地区で過ごした上田悦子さん(76)=同市北野=に、当時の生活を振り返ってもらった。
上田さん(旧姓・中本)は1937年、手平で生まれ、戦争中に紀伊に疎開した。家族は両親と兄、妹の5人。ただ、当時20代半ばだった父・良吉さんは、上田さんが物心つく前に戦地へとかり出された。
働き手を取られ、とにかくお金がなかった。上田さんは紀伊小学校に通いながら、生計を立てるため、母・松子さんと共に農家でタマネギのわら袋を作るなどして、懸命に働いた。空腹は畑で作ったイモや、そのツル、野草などでしのいだ。配給もあったが、黒く細長い外米で味は良くなかった。
病気になった時が大変だった。盲腸の手術は麻酔なしで、ベッドに手足を固定された状態で行った。気を失うことができず、「殺して」と暴れたため、手術は2時間にも及んだという。
仕事で使うそろばん以外、勉強はほとんどできなかった。登校しても、毎朝のように空襲警報のサイレンが鳴り、すぐに帰らされた。帰り道は一人。「空にはたくさん飛行機が飛んでいて、いつ爆弾を落とされるかと、怖かった」
川向こうの市中心部が燃えていくさまは、昼間でも分かった。自宅前に掘った防空壕(ごう)に家族みんなで入ると安心し、「絶対に死なないような気がした」という。
小学3~4年生の頃、松子さんから父が戦死したことを聞かされた。「顔も知らんのに亡くなったって、どういうこと」。みんなの前で泣くことができず、トイレで泣いたのを覚えている。
「世界ではいまも戦争をやってるけど、どんなことがあってもしたらあかん。戦争がないことほど幸せなことはない」。いまの平和が、これからも永遠に続くことを願っている。