約100年の歴史がある和歌山市東長町の「本多内科クリニック」名誉院長、本多俊晴(としあき)さん(83)も、70年前の和歌山大空襲の記憶が脳裏に深く焼き付いている一人。「空襲に早めに気付き、逃げていたら死んでいたかもしれない」。土蔵で一夜を過ごし、奇跡的に家族全員が無事だった当時の体験を聞いた。
昭和20年(1945)7月9日の夜、本多さんは自宅で寝ていた。当時、旧制県立和歌山中学校(現・桐蔭高校)2年生。東長町で診療所を営んでいた祖父母と母親、弟1人、妹3人の8人暮らしで、父親は上海にいた。学校では勉強に時間が使われることはなく、田んぼの草取り、稲刈りなどの農作業を何でもした。6月半ばからは、陸軍が壕を掘っていた孝子の山で、木材を担いで運ぶ仕事をしていた。孝子峠の麓から毎日2~3往復し、体は疲れきっていた。
深夜、空襲警報で目が覚めた。ラジオから流れる声は「和歌山市の皆さん、ご健闘をお祈りいたします」と言うとプツンと切れた。長男の本多さんは家族全員を連れ出し、庭に掘っていた防空壕に逃げ込んだ。「5分か10分かして、防空壕の上に付いていた細長い窓が明るくなった」
様子が変だと思い外に出ると、空は真っ赤だった。火の粉が西から東の市中心部に向かって空一面を流れていた。周りは高い塀で見えなかったが、街が燃えていると分かった。だが「別にびっくりもせんかった。気が動転することもなく、極めて冷静だった」という。
「逃げんといかん」と思い、防空壕で寝ていた家族を呼び起こして防空壕を出た。煙や火の手のない方に向かい、3棟並んで建っていた土蔵の真ん中の蔵を選んで中に逃げ込んだ。「蔵は火事でも焼けない」と祖母に聞いたことがあった。途中、本多さん宅に一人逃げ込んできていた高齢の女性を見つけ、「ここで死ぬんや」と座り込んで動かない女性を引っ張って蔵に入れた。
市街地への爆撃は3時間続いた。「普通は何か音が聞こえてもいいはずだが、蔵の中にいる間はなぜか、何も聞こえなかった」。午前5時ごろになり、炎は収まったと思ったが、10時まで待って外に出た。
この場所からは見えることがなかった和歌山港から養翠園まで続く松林が一直線に目に入った。建物は県庁と、遠くに丸正百貨店の残骸だけが見えた。他に視界を遮るものは何もなかった。
「そんな光景を見ても何も思わなかった。しょうがない、こうなってしまった、とだけ思った」。その時は感情が機能しなくなっていたのか、悲しみも怒りも、何も感じなかったという。祖父母も母も、弟たちもひと言も話さなかった。
その後、親戚の家に泊めてもらおうと、焼け野原になった街を歩き、北島橋を渡った。道中、道の真ん中に直径3㍍半ほどの穴が開いたりしていたが、遺体はほとんど見ることはなかった。柱がなくなった電柱の銅線だけが道端に垂れ、長く続いていた。
その後、上海から戻った父親が診療所を再開し、本多さんは跡を継いだ。
「家族全員、無事だったのは本当に運が良かった、それだけです」。戦災をくぐり抜けた本多内科は現在、本多さんの息子・俊裕さんが院長を務め、地域医療の担い手として診療を続けている。