「一九四五年七月九日を 私は忘れない」――。和歌山市杉ノ馬場の上原ハツさん(82)は、約20年前にしたためた自作の詩を静かに朗読する。友人の土岐キミ子さん(82、同市島橋北ノ丁)、山本弘枝さん(82、同市湊紺屋町)は同じ昭和7年生まれ。和歌山大空襲から70年目の7月9日、3人で汀公園の供養塔を訪れる予定で、3人は「尊い犠牲の上に、いまの私たちの生活がある。元気で暮らしていることの感謝を伝え、平和な世界が続くよう祈りたい」と話している。
3人は、高齢者が交流する「エリカつどいの家」(同市杉ノ馬場)の折り紙教室に通う。誕生日も10月の1日、8日、9日と偶然に近いこともあり気が合う仲間だという。毎年7月9日が巡ってくると、自然と当時12歳だった戦時下の体験に話がおよぶ。
土岐さんは強制疎開で、それまで住んでいた西蔵前丁から板屋町の借家に移り生活。深夜、米軍B29による焼夷弾が雨のように降り注ぐ中、2升の米を詰めたリュックを背負い、母と5つ年上の姉、当時4歳と2歳だった2人の弟と一緒に5人で逃げた。
市内の避難場所に指定されていた旧県庁跡(現汀公園)を目指したが、人であふれ返り、進もうにも押し戻されるほど。逃げ場もなく、とにかく炎の旋風から逃れようと水を求め、城北橋下の川へ入った。水は焼夷弾の油を含み、割れたガラス窓の破片が川へ流れていた。強いつむじ風と火の粉で目も開けられないほど。水は初めは腰まで漬かる程度だったが、満潮の時間と重なり、水面は目の下の高さに。今でも目の下に違和感が残るという。いつしか家族ともはぐれてしまっていた。
水も引き、夜もうっすらと明け始めた頃、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。祖父が自分を探しに来たのだった。手を差し伸べ、川から引っ張り出してくれた。
次第に明るくなったまちのあちらこちらには性別も分からないほどに黒焦げになった遺体が横たわり、祖父に「そっちを見るな」と言われ、なるべく目をふせて歩いた。「今でも、思い出そうとすると胸が詰まるようなひどい光景でした」
その後紀の川の堤防で、はぐれた家族と再会。軍の指令部にいた父も駆け付け、全員の無事を喜び合った。
母は土岐さんに駆け寄り「よう1人で頑張ったね。いくら探してもおらんから、キミ子はもう死んでしまったのかと思った」と、強く抱きしめた。
涙があふれる光景 5人姉弟の長女だった上原さんはその日、母親と、9歳と1歳の2人の弟と一緒に粟へ疎開するため北島橋を渡り、堤防から火の海になった和歌山市を見た。南海鉄橋の上を歩く人の姿が印象的で「空を焦がすような赤い炎、天と地とがひっくり返るような怖さがありました」と振り返る。
翌日、北島橋付近には焼け焦げたおびただしい数の遺体が転がり、地獄のようだった。数日がたったまちなかでも、水を求めて防火用水に入り、赤ちゃんを抱きかかえたまま体が膨張した状態で亡くなっている人や、井戸のそばで息絶えた人の姿を目にした。
上原さんは慰霊と平和への願いを込めて一遍の詩をつくり(※7面に全文を掲載)、平成8年と21年に、汀公園で営まれた慰霊祭で朗読した。今も詩を読むと、あの日の光景がよみがえり、涙があふれる。
戦争は終わりにして 山本さんは空襲の直前の6日から滋賀県に疎開していたため空襲を体験せずに済んだ。しかし出口端ノ丁の家は焼失。空襲の5カ月後に市内に戻った山本さんは、丸正ビルをわずかに残し、見渡す限り焼け野原になったまちの姿を見て悲しみに暮れたという。夫の祖母と伯母を空襲で亡くしたため、慰霊祭には何度か出席している。
あれから70年がたち、空襲体験者の高齢化で、和歌山大空襲の悲劇が忘れ去られていくのではないかと危惧(きぐ)する。平和を願う一方で、世の中の動きには不安もある。
3人は「戦争につながるようなことは、絶対に日本にしてほしくない。貧しい思いや悲しい思いは、自分たちの世代で終わりにしてほしい」と強く願う。
70年目の夏、戦禍をくぐり抜けてきた身として、そんな願いを込めて、御霊に手を合わせるつもりでいる。
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昭和20年(1945)7月9日、和歌山市は米軍B29による大空襲を受け、1200人以上が亡くなり、4000人以上が負傷した。あの日から70年、戦争を知らない世代が増える中、「再びあの過ちが繰り返されることのないように」――。次の世代に語り継ぐ体験者の声を聞いた(全4回)。